風日記soft6

普通の日記です。

般若一族とその時代

このページには,詰将棋について語る掲示板に首さんが 不定期連載をしてくださった「般若一族とその時代」のバックナンバーを まとめました。

また再開される日が来るのを期待しています。

はじまり

初投稿作の改良図 首猛夫 [1999/05/03,22:41:59]

私が、はじめて将棋雑誌に投稿したのが「爪牙」残念ながら余詰・・・。 しかしこの度「般若一族とその時代」なるものを書いている関係で以前に発表した作品を修正しています。 まず第一弾がこの「爪牙」というわけです。 2ヶ月くらい前に原亜津夫君に見てもらってからまた少し修正を加えてみました。良かったら感想下さいね。

般若一族とその時代 首猛夫 [1999/05/15,02:19:42]

爪牙にいろいろなコメントありがとうございました。 自分としては何しろ初めて作った詰め将棋だけに人一倍愛着があり、正しく評価できていないと思っただけに、皆さんのコメントは参考になりました。

また、「般若一族とその時代」は読み物としては非常に面白いとは思うのですが、初心者へのアプローチを拡大しようとしている詰めパラには合わないし、メイトに掲載するにはやばい話?もたくさんあるので(要は毒も含んでいるので)森田さんには迷惑かけたくないので、独自の出版形式を取りたいと思います。 といっても自費出版などという大袈裟なものではなくお世話になったかたがたへ面白いのでどうぞというようなものです。 ただし、文書量としてはかなりのものになります。 一作ごとに説明する量が多いので、仕方がないのですが何とか今世紀中に書き上げたいものですね。

また、この会議室で発表していくなんてのはどうなんでしょうか? よほど、脊尾詰の会議室でと思ったのですが何しろ図面が見づらいので止めにしました。 どうでしょうか、ご意見聞かせてください。

プロローグ

1980年代に突如「般若一族の叛乱」という懸賞詰将棋出題が詰パラに3回連載された。 奇怪なペンネームと、意味不明な詩が添えられた出題はその2回目「虎バサミ」で何と正解者ゼロという予期せぬ結果を得て一躍マニアの注目するところとなった。

難解なパズル風の作風と、趣向的な動きが特徴で、同じところを行ったりきたりするが鍵を見つけるのが大変だったと当時の検討者は感想を寄せている。

黒田紀章六段を中心とした、詰将棋の好きな指将棋の高段者が偶然にも多く集まり、私はその繋ぎ役として、理論構築・検討・投稿・折衝等々を任された。

まず私が心がけたのは、今までにない詰将棋を作ること、そしてやはり今までにはない詰将棋制作集団を作ることだった。

詰将棋の制作とは孤独で実りの少ない作業である。

特に私たちが当時目指していた作品のスタイルは、主流とは呼べず中々理解されなかった。 七条兼三氏を始めとして条件作を作る作家が多く、それはそれですばらしいことではあったのだが、私たちは解答者に挑戦する形を取って今までの解図法では及ばないところで勝負をしたかった。

そこで、力がありかつ勝負ごとが大好きな指将棋の高段者に目をむけたのだった。 しかしそこにはいろいろな偶然が重なっていたのだろう。 まるであらかじめそこには一族郎党が最初からいたかのように自然と人が集まっていた。 集団でわいわいがやがや、時にはうるさいほどの熱気の中で、次々と超難解作が作られていった。

頂点は「千山」だったと思う。

素田黄(すだ・こう)氏が発案し、私が原案を整理し、黒田氏が制作し、これをまた私が数学的理論構築し、検討者の藤島禮治四段・斎藤修四段に余詰を指摘され、これを修正、さらに素田黄氏が不詰を指摘、最終的に黒田氏と私が完成させ、近藤郷氏から完成品と評価され、出題。 解答者はそれぞれの棋力注意力で手数が分かれ、それぞれがそれぞれの力に応じて楽しめる本邦初の詰将棋作品となった。 森田正司氏の力のこもった解説と解答者の熱い評をいただいて塚田賞となった。 そのころの塚田賞は図面の入った置き時計と賞金3万円だった。 もちろん3万円は一族十数人と飲みに行った。

しかし、時は過ぎ人生は流転する。 一人抜け二人抜け、最後は私が拠点としていた将棋の会所を辞めることとなり、事実上般若一族は終わってしまった。 十年の沈黙の後、素田黄氏と私とで遣り残した仕事を終えいよいよ本当の終焉である。

さて、解答者のためのエンターテイメントだったわれわれの仕事を何かの形で残しておくべきだと感じ筆を取ることとした。 同時代を駆け抜けたいろいろな作家とともに私たちの全貌を明かすことにしよう。

大井町

東京駅から国電京浜東北線で南下すること十数分、萩原朔太郎が住んで いた大井町。 私がこの地を訪れた1979年には未だ戦後のバラックがあちこちに立ってい る町だった。

競馬場や、競艇場などが近隣するせいか、どことなくやくざな雰囲気の漂 う町で、住んでいる人間より集まってくる人種が作るそんな町だった。 国鉄(現JR)のガード下には夜になると、大道将棋が立った。 勤め帰りのサラリーマンや、職人風の男たちがカーバイトの灯かりの中で 紫煙をくゆるせながら大きな盤をはさんで対局をする。 今の時代には考えられない光景だが、それはそれでなかなか風情のあるも のだ。

大塚六段という、年齢にすると当時でもう既にかなりの老境に入った方と お見受けしたがこの方が東京都で唯一持っている「移動遊戯許可証」。 これが大道将棋を支えている「お墨付き」だった。 これとは全く正反対に、日本道場連合会の会長の経営する将棋センターがこの 大井町にあった。 鈴木さんというこの方も先の大塚さん同様、明治生まれの気骨を持ってい る筋金入り。

私がこの大井町に来たのも、将棋を生業とする何か良い方法がないか鈴木 さんにお尋ねするつもりためだった。 しかし縁とは不思議なもので、そのままこの私がこの大井町将棋センター に約8年もの間勤務することになろうとは夢想だにしないことだった。

とにかく鈴木さんには三宅島にいずれは蟄居しようという計画があり、誰 かに将棋センターを任せたいとの考えがあった。 そこへ私が行ったものだから渡りに船、話はとんとん拍子に決まる。

こうして79年夏、私は将棋センターを任され以来87年にその任を終えるま での間、仕事?をしながら般若一族の面倒を見させてもらうことになった。

図面は、私の初期の小品である。

指将棋五段くらいの方に出すと、みんな頭を悩ませる。

角中合までは行くのだが、そこから「打歩詰には不成」という先入観念に とらわれていけない。

早い人で、30分くらい。

迷路に入ると50分もかかる人もいたが、詰めパラ会員は早かった。

今見てみると何ともかわいらしい仕掛けだがその当時はこれでもいっぱし の作家気取りだった。

詰パラ

私がそもそも詰将棋の世界に入ったきっかけは何と云っても、「詰むや詰 むざるや」だ 門脇氏の手によるこの歴史的名著は、数多くの示唆を今もな お与えてくれている。

私もこれを解析することにより、その後の長編創作に大変役立った。 ( 図は無双56番だったか、それの原理図を抽出して詰将棋としても成立す るようにしたものである。 当時はこんな事を多く手がけ、後の創作に 大きな影響を持った。)

私の読み方はちょっと変わっていて、答えを読みながらこれを暗算で追い かけるのである。

このやり方だと、解く方はあまり強くならないが作るにあたっての感性を 磨くのには最適で、しかも将棋盤が頭の中でしっかり出来上がっていくのが感 じられた。

将棋のプロはこれを解いて読みを鍛えるというが、私には指将棋を強くな る必要はなかったうえに元々こんな難しいものを解こうなんて気はさらさらな かった。

この考えは今でも、正しかったと思う。

したがって私は皆さんが思っているほど詰棋力(解図する力?)はない。 何かで山田修司さんも同じような考えと聞いて何やらうれしくなった。 まあ鍛えは向こうの方が何十倍も上でしょうけれど。

それこそどこへいくのにも、この「詰むや詰まざるや」を持ち歩いていた ものだった。

それだけでは物足りず、詰将棋パラダイスなる雑誌にたどりつくのには時 間がかからなかった。

話は前後するが、大井町で仕事をする前に一度、吉祥寺で手合い係のアル バイトをしたことがある。

大井町にいく前の十ヶ月くらい前の数ヶ月だったが、そこで早稲田大学将 棋部の小川千佳夫君と出会った。

彼は私が初めて見る詰パラ会員で、鮮やかに長編を解いていく様を見て 心の底から驚いたものだった。

将棋も強く、理知的な風貌とあいまって羨望の眼差しで見ていた。

その私が後年、詰将棋創作集団のフィクサー的な役割を演じるとは誰も思 わなかっただろうし、自分自身もとてもこんな風に詰将棋をこなせる人間にな れるとは夢想だにしなかった。

その後いろいろな詰パラ会員に出会ったが、最初の小川君の印象は強烈 でどこか彼と結び付けてしまうようなところがあった。

その頃の詰パラ詰将棋のごった煮のような雑誌で、現在のようなすっ きりしたレイアウトではなく、よく言えば手作りの味があり悪く言えば雑然と して混沌そのものだった。 このごろこの時の詰パラが懐かしいという文 章を時折目にするが、気持ちはよく分かる、が今の詰パラの路線も理解して あげてほしい。

出会いまで

'79年夏に大井町将棋センターに勤務することになった。

当初席主の鈴木さんや奥さんと一緒に仕事をしていたが 翌 '80年3月よりご夫婦は三宅島に蟄居され、 二月や一月に一度センターに来る以外はこちらが全部取り仕切ることとなった。

しばらくすると、詰将棋の好きな男が大井町にいるといううわさは狭い将棋の世界でのこと、あっという間に広がったようだ。

最初の使者は藤島禮治四段だった。

西大井の豆腐屋の息子で、入間の航空自衛隊で飛行機の整備士。 わけあって除隊後、実家を手伝うかたわら大井町にやって来ては将棋の研究をする毎日で、長身痩躯 さっぱりとした性格ながらその研究は奥深いものがあった。

特に彼は、指将棋を独自の口上で面白おかしく盛り上げることがあり、 桃太郎侍の仕上げの切り出し (ひと〜つ人の世の生き血を吸う、ふた〜つ不埒な悪行三昧・・・) で相手玉を寄せるといったあんばい。

こんな風にやられるのだから相手はたまらない、 口上で負けた人もかなりいたのではないだろうか。

藤島禮治四段は詰将棋もかなりの腕前だった。

自身もひとつだけ創作があり、これは詰めパラに掲載された。(図)

大道棋などに興味を示し、 どちらかというと機略に富んだ作品が好みだったようで、彼の棋風にもあっていた。

彼は、他の将棋道場や将棋センターなどにも良く顔を出して いろいろな情報を持ってきてくれた。 そのおかげで経営戦略上随分役に立った覚えがある。 どこそこのセンターでは今度こういうも催しものを企画しているだの、 こんなサービスを始めただのこちらにとって有益な情報を流してくれる。 産業スパイ?そんなことが問題にならないおおらかな世界、 むしろ後年道場連合会などで お互いのセンター同士で情報交換や意見交換などをするようになった。

彼が運んできたのは、そういった情報ばかりではなかった。

五反田に同じように詰将棋をする人がいる。

何やら怪しげな雰囲気で、指将棋は六段、 奨励会が習いに来るというから相当なものである。

ただ、あまりの個性的な言動や並外れた鋭さから敬遠する向きもあり、 良いにつけ悪いにつけ一度会ったら忘れない強烈な存在。

それが黒田紀章六段だった。

能力試験

憶えているのは、その日が雨だったこと、彼は黒一色の服装だったこと。 五反田将棋センターへ黒田紀章六段に会いにいったのは、1980年の初夏。

梅雨だったのか、雨が降る午後、席主の三瓶氏に将棋を指しに来たのではなく、 黒田さんに会いに来た旨を話すとあの人がそうですと指を差して教えてくれた。

黒田六段はちょうど将棋を指しているところだった。

私がそばに座ると、「奨励会か?」とこちらも見ずに盤面を凝視しながら尋ねた。

「いいえ、詰将棋を教わりにきました」と答えると、 初めてこちらを見て「作るのか?」と再び尋ねられた。

まだ少ししか作っていないこと、藤島禮治四段から素晴らしい詰将棋を作られる (黒田氏が)ことを聞いて是非お会いしたかった事などを話すと、 ふと指将棋の相手の方に「もう終わりだろう」と驚いたことに投了を催促し始めた。

ところがもっと驚いたことに、 相手も「これ以上やっても駄目か」とつぶやきながら投了したのだった。

私のような棋力の低い人間にとってはまだまだ中盤のように思えた局面も、 高段者にとっては結論の出てるところだったのだろうか。

今まで座っていた相手のところへ座をうながしながら、さあ一局やろうぜ と盤面を直し始めたので、 こちらはあわてて「いえ詰将棋・・・。」 と遠慮がちに言うが動じるところ微塵もなく、先番でと催促する。

仕方なくというかその眼光の鋭さ、 この場所・空気・一帯を圧倒するような雰囲気に呑まれたのか、 将棋を指すところとなったのだが何しろこちらは定跡は全く知らない、 つい昨年までは一級が良いところ、 まあ将棋センターに勤務するようになり多少なりとも強くなっているとはいえ、 六段と指すなど手合い違いも甚だしい。

ところが、将棋は白熱の勝負で終盤まで一手違い、 もちろん遊ばれているのだろうと思いつつ、 相手に必至をかけて自玉詰みなしという典型な勝ちパターンを見つけた。

しかし、その変化には妙手があり実は逆のことが私に起こることを知った。

すると突然、黒田六段はこれで終わりだなとつぶやいて 少し手の説明を簡単にすると局面をいきなり崩した。

そして、作品を見せろという。 仕方がないので習作のような短編(以前掲載した角中合短編と今回掲載し た図面)をお見せしたところ、いきなり「虎バサミ」の話となった。

詰将棋は理屈がしっかりしていないと、だめなんだ。 矛盾していることをいつまでも考えているような知能ではとても出来ないから、 どうやらあなたは合格のようだね」

何のことはない、今までのことは試験だったのだ。 拍子抜けした私は「虎バサミ」の話を聞くことにした・・・。

「虎バサミ」は正解者ゼロの世紀の作品。 当時は全くと云っていいほど評価されなかった。

唯一駒場和男氏だけが「詰将棋トライアスロン」で取り上げてくれただけだった。

正解者ゼロ

黒田紀章六段は何かと普通の人とは異なる存在だった。

いかつい顔つきと分厚い唇、鋭い眼光とガタガタな歯並び。 1日百本もたばこを吸うが酒はほとんどやらない。

当時は私がロングピースを7〜80本というヘビースモーカーだったので 二人で喫茶店にいると灰皿があっという間に山盛りとなる。

独特の口調に秘められた性格はてらいとプライドだった。

全然他人のことなどお構いなしなのかと思うと実に繊細な一面があって、 二回目からの話は私が大井町将棋センターの責任者ということもあって、 同業というよりは商売仇と認識されそうになるだろうとの配慮から 五反田駅近くの「しゃるむ」という喫茶店で行われることになった。

地下にあるこの喫茶店でおよそ一年ものあいだ、 般若一族の母体ともいえるさまざまな出会いが待っていた。

人一倍通る声で、話す内容はいつも確信に満ちていて臆するところは微塵もなかった。 それでいながら、彼は自分の作品がどのように受け止められているのか、 いつも気にしていた。

私と出会った '80年までに黒田六段はおそらく 「今井光作品」「黒龍江作品」「カルマの法則」(黒龍江作品Ⅱ)「ブラック&林浩」 の5作品を発表済みだった。

そしてそのどれもが、革新的であり斬新なものばかりだったが、 なぜか当時の選者や解説者の論調は冷ややかなものばかりだった。

「今井光作品」は当時より更に12年もさかのぼる話だったが、解説はゼロ、 多少変化の説明(おそらく投稿の際につけられていたコメントと思う)があるだけで、 失礼ながら故塚田十段も余りの複雑怪奇さに少々もてあましていたのではなかろうか。

その他、近代将棋の解説を読むにつれ、 解説者は果たして彼の作品を正しく理解していたのかと疑問を投げたくなる

要は、自分が粉骨砕身「新手」に命を削る思いで創作しても、 それが全く評価されない(陰ながら評価していた人は数多くいたのだと思うが) ので半分嫌気がしてのではなかろうか。

彼は指将棋でも独特の戦略を持っていて、 思い起こしてみれば森下流3八飛戦法(相矢倉)など世の中に出る前から多用していた。

高段者の間では「変な序盤戦術」と酷評だったが、 誰よりも空間という概念を敏感に表現する彼の棋風は中々理解されなかった上、 卓越した大局観に支えられた機略は誰も真似出来ないものだった。

「新手」というのが彼の口癖だった。

いわゆる新構想の長編なども総称してこう呼ぶ。

いつしか彼と私は「新手」を創造することで意見が一致していった。

今井光作品

事実上、黒田紀章六段のデビュー作品は何の予告も懸賞もなく静かに 近代将棋に昭和46年8月号に掲載された。

この作品には面白いエピソードがある。

黒田六段との喫茶店での会合は、最初の出会いから毎週、 私が将棋センターを休める木曜日に開催された。

会合といっても当初はほとんど二人だけで、 布製の盤とプラスチック駒を持って1日8時間近く詰将棋の話をするのだから 良く喫茶店も黙っていたものだ。

そこで、私は彼の最初の作品はどんなものなのか尋ねた。

すると良く憶えていないが確かこんな作品だったと説明するのだが、 図面は頭から消えてしまっている。

その作品はどこに掲載したのかと聞けば、近代将棋とのこと。 早速バックナンバーを近代将棋社に問い合わせするが、もう在庫はないとの返事。

それではというので、国会図書館に行ってみることにした。

ペンネームだけは憶えていて、 ヒカルイマイという競走馬から取ったその事だけがヒント、 後は昭和40年代に発表したことくらいしか分からない。

みなさんは、自分の作ったものくらい憶えてないのかと疑問に感じるかもしれないが、 余りにも複雑怪奇な物を作るとこんな現象に出くわすものらしい。 後年私も、黒田六段と数多くの作品を作るようになって 始めてこのおかしな現象を自分にも感じるようになった。 どうやら自分の知力の限りを尽くして考えるからで、 その意味では般若一族の作品は作る側としての限界ぎりぎりに迫っていると云える。 このごろ物覚えが悪くなったというのは年のせいだが・・・。

そして国会図書館で該当する号は見つけたものの、 簡単な変化・紛れの記述では一体なぜこんな手順が成立するのか皆目見当がつかない。

そこで何度か盤に並べて研究して始めて、全容が明らかになってきた。

答えを見てわからない詰将棋とは、いやはや何ともややこしい。

もっと驚いたのは、この研究結果を当の本人に見せたら 「こんな物を作ったかな〜」と意外な反応で、 徐々に思い出してきては、 「あっ、この変化には苦労したんだ」とか 「ここで変化を作意より2手短くすればもっと難しくなるとか、 懐かしそうに話していた。

しかも、ただ一人の正解者は自分自身だというのである。

彼の筆名は「黒龍江」、唯一の正解者は「柳晃」、どちらも「リュウコウ」である。

なぜそんなこと?

それは正解者がいないと、難しすぎるといわれて敬遠されるからで 事実当時の塚田十段はあまりに難解な詰将棋は好ましくないとコメントしている。

そして彼は、この作品は指将棋の専門家に挑戦する意味で作ったとも述懐している。

将棋の技量そのものでは決して解けない、 むしろ将棋はあくまで形を借りたものであり 別の回路を使わなければ解けないような作品を作ったつもりだ。

三年前、 米長邦雄氏のお宅を訪問させていただいた時に この作品はちょっとやそっとでは解けない旨お話したことがあった。

私としたことが相手が世界一頭の良い男というのをうっかりしていた。 私たちがお宅を辞した後、苦吟すること三時間!なんと本作を解いてしまった。

四半世紀を経て、米長邦雄プロによって正解者ゼロの封印を解かれた本作は 天才と天才のふれあう場所を提供してさぞ満足であったろう。

われこそはと思う方は、解いてみると良いだろう。

今までこれを解いたのはわれわれが確認できる限り米長氏一人だけである。

素田黄氏登場

二人だけの会合では何かと話題に欠くこともあり、 他に詰将棋に興味のある人間はいないかと探してみたけれどもなかなかいない。

指将棋の高段者というのは、7〜9手くらいがやっとで、 赤旗準名人になったこともある村野氏でさえ一桁以上はやる気がしない (19手を一目というツワモノなんだけれどなあ)というから、 いかに詰将棋アレルギーが強いかわかるというものだ。

そんなある日、素田黄氏はやってきた。

もともと大井町将棋センターの常連だったそうだが、 仕事が忙しくてしばらく休んでいたとのこと。

私が詰将棋を解いているとかたわらにやってきては、 ああだこうだと一緒に解くようになった。

年は私より四つ上で、団塊の世代より少し遅れている世代か。

黒田氏は団塊の世代より少し上、素田黄氏より一回り上といった感じだ。

指将棋は四段で、定跡に明るいタイプだが詰将棋となるととにかくしつこい。 何の手がかりもないようなところを桂馬や香車、 生角・生飛車といった飛び道具で捕まえるのを得意としていて、 人が嫌がる変化を平気で追いかけまわしていた。

私と二人で詰パラを解くと大抵1日で全問解けた。 詰みをよむ方向が違うので、 互いに盲点をカバーできてよく二人で一人前などといわれたものだった。

温厚な人柄だが、 鉈のような読みは他に見ることのない独特のもので われわれの作品の特徴的な複雑さは彼の資質によるといえる。

いまでも、私の作品の検討はほとんど彼の手による。

ただ他の検討者と違うのは、 論理の成立に関する部分が複雑怪奇なわれわれの作品に対して いろいろ意見をいってくれるところである。

とにかく素田黄という最良のパートナーを得て、般若一族の原形が出来上がった。

他のメンバーはみな詰将棋愛好家というより終盤が強い指将棋の高段者で、 芸術志向より「勝負!」という感覚で参加していたように思う。

そんなこともあってか、大道棋的な感覚の中編が後年いくつも出来上がった。 図は般若一族の入門試験などといわれた作品で、 これは詰将棋パラダイスのデビュー作品「衛星の棲家」へと発展を遂げる。

みなさん一度解いても正解と思わず、少し考えて下さい。

「ゴウ」氏との出会い

原型が出来た般若一族にとって、 これが単なるマニアの集団に終わってしまう可能性は十二分にあった。

いつの世もそうだが、どこかこういった集まりには付き物の閉塞感。

それを一掃してくれたのが近藤郷(こんどうくに)氏。

私の筆名「首猛夫」は埴谷雄高氏の異色の小説 「死霊」の主人公の一人から拝借している。

これには私なりの理由があり、 いつかこのペンネームに「ほう」と興味を持つ 同じように「死霊」=埴谷雄高の世界に魅せられた同好の士が現れるのではないかと。 そんな願いを込めて付けた筆名だった。

ちなみに、大道棋教室の「矢場徹吾」は首猛夫と同じく死霊の重要な主人公で 彼の義兄弟になる。

余談になるが死霊の中で繰り返し出てくる「自同律の不快」こそ 昏迷の現代社会を解く深い鍵であり、 わたくしがいつも考えている --- 自分がどこからきてどこへいくのか --- という問いかけに十分答えてくれるものと思っている。

そのわたくしの小さな計らいにすぐ答えてくれたのが近藤郷氏。

将棋センターに訪れるなり、「『首猛夫』さんはいますか?」 と尋ねる彼との最初の出会いは生涯忘れることのないひとつだろう。

五月人形のような丹精で美しい顔立ちと、 ガラスのような感性でコトバを紡ぎ出す彼もまた「死霊」を読み、 詰将棋に魅せられそしてここにやって来た。

知っている詰将棋といえば、「図巧」「無双」の 各百番とその一年間の詰めパラに掲載された作品くらいの私にとって、 彼の詰将棋観はアカデミックで しかも小川千佳夫君と比べて「作家」という響きが私を魅了した。

文学の話や哲学などの話を織り交ぜながら、詰将棋の話をした。

驚いたことに、彼は黒田氏を良く知っていた。

何でも東京将棋道場というところがあって、 そこでさまざまな詰将棋作家が集っていたという。

偶然とは恐ろしいものだ。 というよりは元々狭い世界なのかもしれない。

最近、実力解答者として豪腕を振るっている福島竜胆氏も顔を出していたと知ってびっくりした。

近藤郷氏と黒田氏は出会い、 さまざまな作家(山本民雄氏や原敏彦氏ら)たちと詰将棋を語り そこで麻雀を楽しみとまるで般若一族の原形のようなものだったらしい。

だた一つ欠けていたもの、 それはスポークスマンでありプロデューサーである私のような存在だった。

近藤郷氏を得て、私たちは創作集団としての結束を固めた。

首猛夫の名を見て誰かが来るかなと密かな期待が見事にあたったのだが、 残念なことにこの後その方面からの訪問者は誰一人現れなかった。

図面は将棋世界に掲載され、 升田九段より賛辞をいただいていたこの種の詰め上がりの新手であり決定版であり、 この男がこんな素晴らしいものを作るのかとあきれるほど感心した覚えがある(失礼)。

鶴田主幹との出会い

1981年4月号の詰将棋パラダイス。 各学校の担当者の顔ぶれ。

幼稚園柳原裕司
小学校塩沢邪風
中学校清水一男
高等学校伊藤正
短期大学兼井千澄(角建逸?)
大学近藤真一
大学院田中至
(敬称略)

何と故人になられた方が、二人もいて隔世の感がある。

鶴田主幹の代の詰パラには編集日誌があって、自身の周辺のことはもちろん 政治のことやスポーツ・文化・芸能まで取り上げていた。

そしてこの号の最後の頁に

2月26日(木)午前、横浜の近藤郷氏、川崎の谷幹氏来訪。午後8時辞去。

とある。

これは一つは一度は主幹にあってみたいという私の希望があり、一つは般若一 族としての作品発表の事前打合わせという意味があった。

近藤郷氏にはもうひとつ別の試練が待っていた・・・。

主幹はやせぎすのギョロとした目つきで、今の詰将棋界はもう一つインパクト に欠ける、何かカンフル剤のようなものが欲しいとしきりに熱弁した。

要は大道棋のような機略に富んだ作品と解答者との対決。

駒場作品に代表されるような難解長編とはまた異なった作品が欲しい、そんな 話であった。

そして次の5月号にていよいよ般若一族としてデビューすることになる。 そしてその意図するところはアナクロでマイナー、最初の詩を再掲しよう。



蒼 蔡 黎


静謐な夜の底に神秘が漂う、
社会性という言葉に裏打ち抜かれ
刻み込まれた陰惨な風景
暗い河を重い舵で渡り、たどりつく
場所とは?
芸術、それはいつの世にも存在の不
快を訴えつづけている。

愚かなる人々よ、繰返し趣向全盛の詰
棋界にも、革命の嵐が吹き荒れるとき
が来た
救い難い風景の中にある暗い河を渡る
時がいよいよやって来たのだ。
上田吉一よ、若島正よ、目を開いて
よく見るが良い。恐ろしいまでに精
錬し尽くされたこの人知の極北を!

(改行や句読点もすべてその当時のまま)

この詩と「衛星の棲(すみか)」という作品で詰将棋パラダイスデビューとな った。

しかしあまりに難解で正解者は少なかった。

これを読んでいる諸氏も初めてであれば挑戦してみると面白いだろう。

3ヶ月の懸賞でも解答者はヒトケタ。 あえて解答は当分出さないこととする。